こないだ、高校生のときに書いてたブログを見つけたんです。
うっわ〜!懐かしいなぁと思って、数記事読み返してみたら、恥ずかしいことしか書いてなかった 笑
けれど、中には「このとき、こんな風に思ってたんやな〜」って発見もあったりして。
そーいうこと、たまにない?昔の日記とか読み直すとさ。
そこで見つけたこのテーマについて、今日は書こうと思う。
私たちが生きる意味について。
目次
死ぬ意味と生きる意味は違うらしい
高校生のわしは、死ぬ意味と生きる意味について悩んでいたらしい。
「人はなぜ、死ぬのか」
「人はなぜ、生きるのか」
この問いの答えは決して同じではない
こんなことを自分で書いてた。
死ぬ意味ってなんやろう。
なんで人は死ななあかんのやろう。
高校生のときは、これがテーマやった気がする。
でも当時は、何となく違うなぁって感じてただけやった。
それが明確になったんは、高校3年生の冬、センター試験が終わって私立大学の受験の勉強をしていたとき。
2013年2月3日、ある人の通夜に出たときやった。
人が死ぬ意味とは
人はなぜ、死ななければならないのか。
ずっと生き続けられたら、時間も無限になるし、のんびり暮らせて最高。
なのになぜ。
当時は、そんなことを考えていたと思う。
でも、今ならその明確な答えが分かる。
人は、生きるために死ぬ。
1度死なないと、人は生きていけないんだと思う。
輪廻転生とか、そういう話じゃない。
大事なのは、記憶。
生きていれば、「またどこかで会えるよな」で別れることができるし、そんなに淋しくもならない。
でも、死んだらもう会えなくなる。
もう2度と会えない。
その事実を強烈に突きつけられたとき、故人は、生涯を終えるまでのその人生で関わってきた人々の中で、輝きだす。
第二の人生が、故人の家族や恋人、友人知人たちの中で動き出す。
そして、人生の第2ステージの基点となるのが、葬式・通夜なんじゃないか。
葬式・通夜のときには、故人が人生の中で関わってきた人達が一堂に集まる。
悲しみ、涙を浮かべ、故人を惜しむ。
そして、故人の人生は集った人々の中でリスタートする。
彼の通夜を見ていて、そんな風に感じたんだ。
人が生きる意味とは
一方、人が生きる意味とは何なのか。
わしはこれが分からんかったから、対極にある人が死ぬ意味を知りたかったんやと思う。
人が死ぬ意味が分かれば、それをひっくり返せば生きる意味になるんじゃないかと。
そこでひっくり返してみた。
人は、生きるために死ぬ
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人は、死ぬために生きる
ものすごく腹落ちした。
人は、将来自分が死んだときに、周りで支えてくれた人達の中でもう一度生きるために死ぬ。
でも、自分が死んだときに、心が壊れてしまいそうになるほど悲しんでくれる人がいないと、記憶には残らず生き続けることができない。
だから、自分が死んだあとも誰かの中で生き続けられるように、周りの人たちと手を取り合い、生きていく。
まさに、人は生きるために死ぬし、死ぬために生きる。
だから、多くの人に惜しまれながら気持ちよく死ねるように、今日も生きていきたいなぁってさ。
生きる意味と死ぬ意味は、死んだときにしかわからない
つまり、生きる意味と死ぬ意味は、自分が死んだときにしか分からないってことになる。
であれば、1日でも早く死んでしまいたい!って思うこともあるかもしれない。
やけどね、もし仮に今日死んでも、来年死んだときと比べると、悲しんでくれる人はきっと今日より来年の方が多い。
生きるって、そういうこと。
自分が死んだときに悲しんでくれる人を増やしていくのが、生きるってこと。
せっかく死ぬんだったらいろんな人を悲しませたくない?
それで、いろんな人の中で死んだ後も生きられたら最高やん。
別に、いつ死んでも良いんやけどさ。
わしは、高校生のときの自分に言いたい。
「がむしゃらに生きて、いろんな人を巻き込んで、泥まみれになりながら必死に生きろよ!そしたらきっと、死ぬとき楽しいぞ!」
って。